実験4号

生きのばしていく

旅行記(二日目夕方~三日目朝)

その長距離列車のコンパートメントに乗り込むと、もう既に先客がいた。彼(壮年の男性)は極東欧の街の夕焼け空を、とはいってもその時はもう19時台も半ばを過ぎていたけれど、憂いを帯びた目付きで眺めていた。列車の中で酒を飲み明かす心積もりでいた僕と友人は、彼のその映画俳優のような佇まいに虚を突かれてしまい、黙って向かいの座席に腰を下ろして一緒に夕陽を見つめていた。

 
暫くの間そうしていると、旅のマナーだろうか、彼の方から話しかけてきた。が、こちらは彼の話す言語が分からず、自分たちも英語でコミュニケーションを試みたが、芳しくない結果に終わった。気まずい空気が流れ、彼は困ったな、とやはり俳優のように分かりやすく寂しげな顔をした。

 
そのまま3人でだんまりを決め込んでいたのだが、そのうち僕はその瞬間をなんとなく綺麗な時間だなと感じて、写真を撮りたいと思った。バックパックからほぼ新品のままの状態に近いガイドブックを取り出し、巻末の「お手軽現地語会話コーナー」と題された例文集を探した。すると「写真を撮ってもいいですか。」というまさにそのままの翻訳文を見つけたので、何度か頭の中で発音の練習をした後、意を決して彼に話しかけた。彼は驚いたようだが意図はどうやら伝わったらしく、曖昧な笑顔で肯定の意を示した。僕は現地語でありがとうとだけ言って廊下に立ち、コンパートメントの写真を撮るという建前で、彼を中心被写体として何度かシャッターを切った。

 

f:id:kkmgn:20180528182827j:plain



 

時刻が8時を回ると、僕と友人は空腹を覚えてきたので貴重品だけ持って食堂車に出かけた。今思えば危機管理が雑なような気がしないでもないが、彼はずっと窓の外を見ていたそうにしていたので、大丈夫なように感じたのだった。

 

食堂車はどうやらかなり遠い車両にあったようで、行く途中でたくさんの車両を通り抜けた。自分たちと同じコンパートメントタイプの2等車両(妙に静かだった)、2人部屋の1等車両(車いす向けの部屋があった)、今度は構造が鏡写しのように逆になっている2等車両、多くの現地人がワイワイと過ごしている3等車両、乗務員用の個室、無限にお湯が湧き出る謎の装置(石炭を使っているらしい)、そういうのをいくつも通過して、はて、食堂車はこの列車にはついてないのかしら、と思ったあたりで豪奢な雰囲気の車両に到着した。食堂車だった。

 

ニシンのオイル漬けをビールでやっていると、いつのまにか同室の彼が別のテーブルに座っているのに気が付いた。あれっ、じゃあ今部屋は無人なのか、それくらいの警戒心で問題ないのか、とか考えたが、飯がうまかったのでなんだかどうでもよかったし、気が付いたらいつのまにか彼はいなくなっていた。彼は料理を何も頼んでいなかったような気がしたが、メニューの値段を見て食べるのをやめたのだろうか、まあちょっと高いよな、と無理に結論付けて僕は目の前のボルシチに集中した。すべての皿に執拗にマッシュポテトが添えられていたことと最後に出てきた魚のスープが異常に味が薄かったことを除けば、飯はとても良いものだった。「食堂車」というものの雰囲気に酔いつつ、うまいうまいと言って僕と友人は自分たちのコンパートメントに戻った。3等車両ではもうすでに就寝の準備を始めていた人もいた。

 

コンパートメントに戻ると、彼はおらず、代わりに若い男女のカップルが就寝の準備を始めていた。カップル?え?じゃあさっきの彼はこの部屋の人ではなかったのか?頭に疑問符を浮かべながら僕らもベッドメイクをし、歯を磨いて上のベッドで少しボーっとしていたら、カップルの女性の方が早々と何の断りもなく部屋の照明を落としてしまった。仕方なく暗闇の中でいそいそと寝巻を捜して着替え、やることもないのでそのまま横になった。全然眠れなかったが。

 

f:id:kkmgn:20180528183355j:plain

 

そのままほとんど寝つけず、早朝になり、僕はコンパートメントを出て、音楽を聴きながら廊下の窓の外の風景を眺めていた。目に映るのは葉のすべて落ちた木々、荒涼とした沼地ばかりで、まばらに人家が見えることすらなく、完全に自然の風景だった。大陸とはそういうものかもしれんなと雑に思考しながら、ふと振り返るとあの「彼」がいて、僕と同じく窓の外の風景を見ていた。その時ふと、彼もおそらく僕と同じく車窓を眺めるのが好きな人種なのだろうと思った。それでもう良かった。退屈を愛する、穏やかな人種。

 

それから2,3時間ほどベッドの上でぼんやりしたり、音楽を聴いたり、荷物を整理したり、また廊下に出て外を眺めているうちに目的地に到着した。乗車時間は12時間ほどで、まだ早朝とも言ってよい時刻だったが、高緯度に位置する都市ゆえ、朝日は既に本調子気味で稼働していて、少し暑かった。寝不足で体がだるく、早くベッドに横になりたかった。

 

f:id:kkmgn:20180528183658j:plain



駅前のロータリーでは、おそらく旧体制の頃から使用されているであろうトラム(路面電車)が軋んだ金属音を立てながらやってきて、幾ばくかの人を降ろしまた同じくらいの人数を積み込んで去って行った。電線から火花が散っていた。それを横目で見ながら、ホテルに向かった。ホテルではアーリーチェックインができるとの事だったので、フロントにその旨を頑張って伝えると、部屋の鍵を渡され、「まだ食べてないだろうから朝飯をサービスしてあげよう」的な事を言われたのだろうか、宿泊日数よりも1枚多い朝食券をもらった。

 

ホテルの冷えたバイキング形式の飯、というか黒パンを食べながら、このおおよそ活発とは言えない都市で数日退屈な日々を過ごすことになるだろうことを想像して、温かく柔らかい気持ちになった。いや、ただ単に眠いだけだったかもしれないが。食べ終わって部屋に戻ると、もう眠気の限界だった。まだ朝と十分言い張れる時間だったが、僕は友人にお休みを言ってベッドにもぐりこんだ。多分夢は見なかった。