実験4号

生きのばしていく

おれは本当に全知になりたかったか?

 1週間前に文章を書いたので読み直している。

 

kkmgn.hatenablog.com

 この文章はできる限り理屈を通そうとして書いているのだが、そのために、というわけでもないが、誇張している部分があるな~と思う。人間の感情というものが完全に理屈が通るわけはない。今日見た岡田斗司夫の動画でもそんな事を言っていた。以下は書き散らし。

 

 自分はすべての他者が嫌いだ、というのはそんなに正しくない。これの考えは、学校とか職場に行くとたくさん人がいて、それだけでプレッシャーがあってきついというのを自分がずっと思ってきたから、「もしかして自分は他者が嫌いなのでは?」と考え、そういうことにすると話が早いからそう嘯いている、というところがある。いわゆる「他者と交流するだけで心のMPが減っていく」というやつだが、これ自体は別に珍しいものじゃないだろうし、これを世界からの疎外感と結びつけるのはちょっとこじつけだと思う。

 

 世界からの疎外感というのは、まああるにはあるんだけど、それでも一応学校でいじめられたりはしなかったし(勉強できたのが大きかった気もする)、大学のバンドサークルでもある程度人と交流をしていたし(バンドなんて実に社会的な行動だ)、職場も現時点ではクビになってない。まあ一人前の社員として信頼されてはいないと思うが、よほど社会構造が変化して会社の経営が傾かない限りはしがみつくことくらいはできるだろうと思う。他の社員の人と仕事上差し支えないくらいのコミュニケーションはとれている。これで「自分には所属というものが全然できないのだ」というにはちょっと無理があると思う。

 

 どちらかというと問題があるのは安心を求めすぎる自分の性格の方だ。毛皮のマリーズは「希望不安定 さらば安定」と『ジャーニー』という歌の中で歌ったが、自分はその正反対だ。この歌詞は「完全な安定なんてない」というのを前提として、じゃあどうするか、のかなり先のスタンスの話をしていると解釈しているけど、自分はそもそも完全な安定を求めるところでストップしてしまっている。なぜ安定を求めるのか。「自分はどこででもやっていける」という自信がないからだ。なぜそんな自信がいるのか。貧乏が怖いからだ。なぜ貧乏が怖いか。住む家がないのが怖いからだ。温かい布団がないのか嫌だからだ。そして今までそのような状況に陥ったことがないからだ。そういう意味では潔癖なんだと思うし、甘っちょろいお坊ちゃんなのだとも思う。でもそれが自分にとっての普通だったし、わざわざ今から貧乏になりに行くのも違う気がする(そもそも今から本当の貧乏になることができるだろうか)。貧困に関して勉強したほうが良さそうだな。

 

 新しい交友関係ができないのは、「自分のことを嫌いな人」と話をしたくないからだ。それで自分のことを嫌いになりそうな人とは深く交流しないようにしているが、「自分のことを嫌いになりそうな人」を広く取りすぎてしまっているような気もする。これは自分が他者が嫌だからというのが背景にあると思う。人は結局自分の考えを他人に仮定して物事を考えてしまいがちだが、一般的には人はそこまで他者のことを圧に感じたりしないし、気にしないというのが正しい、だからもうちょっと「自分のことを嫌いになりそうな人」は狭くとって良い、と頭では考えている。

 

 「自分の家の庭の芝生が最も青く見える」という性格なのだが、結構得していると思う。人を羨むということがあまりないのはいいことだ(というある種の「賢さ」を自分が持っているということに酔っているという考え方もできるが…)。

 

 全知に憧れる、というのも極端な言い方だ。そういう性質がないとは言わないが、自分のことを賢いとちやほやしてくれる賢い人達が自分の周囲にいっぱいいたら、もうそれで十分になってしまうかもしれない。いや周囲にいる人はみんなそれぞれに賢いな~と思っているが。ちやほやされることには憧れがあるが、無い物ねだりしてもどうにもならないので、やることをやっていこう以外に思うことはない。

 

 こんな文章は非公開の日記にでも書けよという気もするが、「公開」することで一区切りできて、後から冷静に読み返せるので、これもありだなと思う。日記には日記ぽいこと書くし。たまにしか書かないけど。何れにせよ自慰行為は気持ちがいいですね。