実験4号

生きのばしていく

百頭たけし「と-れん」と(私にとっての)suburban bluesの情景

 

 

 曳舟・Token Art Centerで開催されている、百頭たけしの個展「と-れん」に行ってきた。百頭たけしの事を最初に知ったのは小林銅蟲リツイートで、その時は「とても硬派なネタツイをする人」くらいの認識だった。後に写真家であるということを知ったわけだが、その作品は、スクラップや投棄された品々を時に暴力的に、時に寂しさの混じったユーモアとともにフレームに収めたものであると私は捉えた。その後、computer fight(かつて私が在籍していたバンド)の1st album「suburban blues」のジャケットにぜひとも百頭氏の写真を採用したいとギターの諦念玲奈が提案し、結果そのようになった。百頭氏にアルバムを聴いてもらい「このような写真はどうか」と提案してもらった写真を見た時は、あまりにもイメージドンピシャで心底震えたのをよく覚えている。

 

 個展「と-れん」は、1階に写真作品が二十数点、2Fに3Dプリンタ出力の像と写真が数点、そして「乾かず歩み去る」「歩み去る」のタイトルが付けられた映像作品のインスタレーション(ノイズ・ドローン的サウンドが同時に流されていた)によって構成されている。入場料500円で温かいお茶が出てきてとても嬉しい。写真作品は撮影年こそ記載されているものの基本的に全て無題である。質素なコンクリ打ちの内装と合わせて、作品以外の情報がかなり削ぎ落とされた空間であり、緊張感こそあったがとても良い雰囲気だった。

 

 個展のタイトルである「と-れん」は、キャプションによればボルヘスの短編トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」(『伝奇集』収録)から取っているとのことであった。この掌編は、トレーンという捏造された架空の文化世界が発見されるも、それがどんどん現実に侵食していく、というあらすじで、私も好きな作品である(SCP-140「未完の年代記」はこれに近い作品だ)。トレーン文化は認識されることで現実性を獲得するという性質を持っており、それは世界の基本的な性質でもあるのだが、それが第4の壁(虚構と現実の境界)をも超越してくるというのがこの作品のミソだ。百頭たけしの作品群がトレーンのように虚構的でもあり現実的でもある、みたいなことがキャプションに書いてあった気がする。

 

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 本個展で鑑賞できる写真作品は、主に埼玉・千葉・神奈川の「郊外」にあるジャンクヤードの風景を撮影したものが中心だ。錆びたスクラップ、異常に積み重なった廃棄マットレスの山、古い自動販売機…。ここで切り取られる「郊外」は、「都会」から排泄されている一方で、「田舎」のような自然とも異なる、工業的なものが打ち捨てられた果ての漂流地として表れている。それはオフィス街や住宅地では見ることのできない風景であり、それら整った世界の周縁にあるものたちだ。映像作品でも示されているが、百頭氏はGoogle Mapのストリートビュー機能を用いてそのような風景がありそうなスポットに当たりをつけ、現地を訪れて撮影を行うという活動スタイルをとっているらしい。その意味で、百頭氏はフィールドワーカーとしての側面を持ち、一つの「郊外」世界を提示する芸術家でもあるわけだ。

 

 私個人として印象的だったのは、作品群の中には大黒天像や狸の信楽焼といった「像」が多く登場していたことだ。不要となった「像」の処分は難しい。石膏や巨大な陶磁器は産業廃棄物として処理しなければならないという手続き・コストのハードルもさることながら、神や動物を模った物品を破壊するということには心理的抵抗感がある。その点で行政システムのゴミ廃棄ラインには乗らず、このような「郊外」に流れ着くパターンが多いのかもしれない。たとえゴミであっても、「都会」の行政システムによって収集されうまく処分・隠蔽されるものとそうでないものがあるのだ。そこでシステムに包括されなかったものが集積されると、新しい性質と表情を見せるのだということを感じた。

 

 本個展を鑑賞した後、諦念玲奈と飲むことになったので、彼に百頭たけし作品の印象について尋ねてみた(彼は私より先に「と-れん」の鑑賞を済ませていた)。諦念玲奈曰く、百頭たけし作品の世界は彼にとっての「原風景」である、とのことだった。転勤族の親を持ち、地方を転々とする幼少期を過ごし、そして現在も「郊外」に住み続ける彼にとって、金属くずの山は彼自身を構成する一つのモチーフであり、computer fightの活動は、その表現であるのだ。諦念玲奈のギターサウンドが自他ともに「金属的」と表現されている現状は、その活動の一つの成果であると言える。一方、私は今まで東京の「住宅地」にしか住んだことがない。その近くにジャンクヤードは存在しなかったはずだ(あるいはただ単に認識できていなかっただけかもしれないが…)。その点で、百頭たけしの作品世界について私は一つの美のあり方の提示として受け取っていたし、生活からは切り離されたものであった。そのような異なるバックヤードを持つ人間が(かつて)同じバンドでアルバムを作れたのは、百頭氏の作品によるイメージの共有が行われていたからなのかもしれない。それは百頭氏と諦念玲奈の表現のパワーの共鳴が成した功績でもあろう。今は私は脱退したが、computer fightの活動については、今後も大いなる期待を込めて見守っていきたい。

 

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