実験4号

生きのばしていく

平方イコルスン『スペシャル』:アンハッピーエンドを希求する心と快楽の檻


 ※本記事には平方イコルスンスペシャル』のネタバレが含まれます。

 

 私が2022年に読んだマンガの中で、最も素晴らしいと思った作品は平方イコルスンの『スペシャル』でした。もう既に2023年が終わりに近づいてきましたが、『スペシャル』の感想を書きます。

 

 なお、『スペシャル』の感想については自分が友人とやっているPodcast実験4号の漫荼羅漫談」でも話しています。今回の記事はそれを文章に整えたものです。

 

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 平方イコルスンの『スペシャル』は、リイド社Webマンガ媒体「トーチWeb」で足掛け8年間続いた連載が2022年に完結、最終4巻が発売されました。第1話は↓から読むことができます。

 

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 平方イコルスンという作者は、主に白泉社の楽園コミックスレーベルから『成程』『駄目な石』『うなじ保険』といった作品を出しており、独特の語彙・テンポの会話劇を描くことに特化した作家でした。

 

平方イコルスン『駄目な石』P5、短編「できる顔」より

 

 『スペシャル』でも同様の作風が更にブラッシュアップされ、転校生である主人公・葉野小夜子と、怪力クラスメイト・伊賀こもろ、およびその同級生たちの日常生活が不思議なテンションで繰り広げられます。

 

平方イコルスンスペシャル』P63より

 このまま数年連載が続き、葉野と伊賀の日常も続いていく…と思っていました。思っていたのですが。

 

この日常が続くと、いつから勘違いしていたんだろう。

ヘルメットを被った怪力女子高生と一風変わったクラスメイトたちの、普通じゃないけど普通のスクールライフ。

だったはずなのに…

喜劇の“外側”に巧妙に隠蔽されてきた黙示録的世界は、誰も気付かぬほどゆるやかに日々を侵食していく。

(第4巻帯文より)

 

 第4巻での急展開、そしてカタストロフィ的終劇。その具体的な詳細については本編を読んでいただくとして、「日常の終焉」を描くために一つの世界を構築し、そして破壊するという作者の恐ろしいまでの執着に畏怖の念を抱かざるをえませんでした。それと同時に、自分が常日頃から抱いていた「日常系」への疑念が見事に表現されていることに大変感動しました。

 

 この「日常系」への疑念は、自分は普段は「鬱よつばと」というワードを使って表現しています。『よつばと!』といえばあずまきよひこによる国民的日常系ギャグ漫画の金字塔であり、主人公の謎の少女・よつばが「とーちゃん」と一緒に、時には笑いを交えながら思い出を作っていく傑作です。しかし、自分はよく思うのです。「この世界に、暴走トラックをひとつまみ投入してみたら、果たしてどうなるのか?」このシチュエーション思考実験が「鬱よつばと」です。

 

 悪趣味な想像だと笑う人・怒る人・呆れる人もいるかもしれませんが、この治安レベルの平和な日本において起こりうる悲劇というのは、得てしてそういうものだと思います。そしてそういった悲劇はそれこそ「よつばと!」で描かれたような、かけがえのない、笑いありの素敵な日常においてこそ際立つものです。自分は家族にこそ不慮の事故で死んだ人はいませんが、知人友人の間柄であれば数人程度は亡くしています。その経験があるから…というわけでもないのですが、私たちが日々生きている日常は、そのような悪い方向にも無限の可能性が開かれているのです。

 

 さて、マンガという虚構分野は、特にエンターテイメントに特化する傾向があります。それは読者層、商業主義など様々な要因があるかと思いますが、とにかくバッドエンドの物語を書くことについてはそれなりのハードルがあるように感じられます。週刊少年ジャンプ漫画賞の質問箱において「(バッドエンドが)ハッピーエンドを上回る満足感や人気を得るのは難易度が高い」という回答があったのは印象的です。

(当該ツイートリンクは以下)

https://x.com/jump_mangasho/status/1441357210458624001?s=20

 

 また、私の友人でも「わざわざ創作物でバッドエンドのものなど読みたくない。せっかくいい気持ちになるために漫画を読んだりしているのに」という人がいました。その理屈自体はよく理解できるのですが、それでも私達の現実に悲劇は存在します。そして、その悲劇の存在に心を囚われ、悲劇だからこそ表現できるなにかを求める人間もいるのです(それこそ自分のように)。自分がよく思うのは、「現実に悲劇が起こったら取り返しがつかないからこそ、虚構の中で悲劇を堪能したいのだ」ということです。

 

 『スペシャル』は自分の「鬱よつばと」のような露悪的な悲劇ではなく、あくまで自然なバッドエンドを描いています。それは主人公である葉野小夜子が「物事を深く考えすぎてしまう性格であるばかりに、友人のことを深く理解できず、自分にとって納得のいく選択をできなかった」という後悔のバッドエンドです。そしてその後悔までの道のりは、あくまで日常とコメディによって舗装されており、「気がついたら間違っていた」という性質のものとして描かれています。『スペシャル』を読んだ友人が「スチルを全部回収できなかったノベルゲーム的バッドエンド」と表現していましたが、これは非常に言い得て妙だと思いました。本当に覚悟を見せるべきときに、適切なフラグを踏んでいないと、ハッピーエンドに至るための選択肢すら表示されない。不幸へ至る道がそのようにできていることがあるというのを、『スペシャル』も友人の感想も、見事に表現していると思います。

 

 『スペシャル』のバッドエンドのもう一つの特徴として、「状況説明が全般的に不足している」というものがあります。途中から出てきた違う言語を話す人(?)たちは一体何者なのか?美倉の行動の真意は?「槍」とはいったいなんだったのか?最後のサイレンはいったいなんだったのか?その疑問は解決されないまま、本作は突然の完結を迎えます。本作完結後に阿佐ヶ谷ロフトAで行われた「平方イコルスンスペシャル』完結記念トークイベント」でも、読者である観客は上記の疑問を含む沢山の質問をし、そのほとんどに作者は「答えられません」と返しました。もちろんある程度の考察はできなくもないですが、基本線としては「わかることができない」という作品世界を作ろうとしたというのが作者の意志であったと思われます。しかし、実際に私達が生きる世界というのはそのようなものではないでしょうか?その価値観が読後感において多くのもどかしさを生み出したとしても、私は作者のその意志を高く評価したいと思います。

 

 こんな作品は少なくとも週刊少年ジャンプのような媒体では作ることはできないでしょう。*1読者は作品を通じて笑いと感動と勝利を得ることを求めているのですから。しかしそれは「エンターテイメント」がもたらす快楽によって、物語の形が軛をかけられているということでもあります。物語・虚構というのは本来とても自由な世界であるはずなのに、商業主義の要請によって枷をはめられてしまっているのです。そういう意味で『スペシャル』は非常に「在り難い」タイプの形式の物語をしており、そしてその物語効果を最大限発揮するために冒頭から続く日常コメディの質の高さがこれがまた素晴らしいのです。

 

 平方イコルスンの次回作の情報は出ていませんが、次の作品が待ち遠しいです。それは『スペシャル』のような作品をまた読みたいという意味ではなく、『スペシャル』を書くほどに物語の力というものを信じている人間が、次にどんな作品を作るのかに興味があるからです。

 

 今後も物語を愛する人による物語を愛する人のための物語が読めれば、それ以上の幸いはありません。

 

 

*1:これは週刊少年ジャンプのあり方そのものを否定しているわけではありません。私は毎週ジャンプを読む人間ですし、そもそもジャンプ作品にも様々なバリエーションがあり、非常に多くの傑作があります。