実験4号

生きのばしていく

「わかる」という快楽とパターン認識と複雑系について

 

 最近友人のグッドゴリラ氏と「漫画についてつらつらと駄弁る」というだけのコンセプトのポッドキャストを始めた(下記リンク参照。興味があったら聞いてみてね)。そこで話題に出て興味深かったのが、「マンガは何を読んでも一定の面白さがある」ということだった。これは彼に好きな漫画を聴いたところ「マンガは何でも好き」というので、いやそんなことはありえない、人間には価値観というものがあるから嫌いなものが必ずあると反駁したところ、グッドゴリラ氏曰く「そもそも漫画を読むという行為自体に面白さが内在している気がするんだよね」ということだった。これは一体どういうことだろうか。

 

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 自分が考えたのは「マンガというのはわからせる力が強い表現形式であるが故に、比較的に快楽を生み出しやすい傾向にある」ということだ。この結論の前提には、「わかる」というのは、実際の読解の理解度の程度とは独立して発生するただの「気持ち」であるということがある。全然わかってないのにわかったような気持ちになる、ということはいくらでも発生しうる。そして重要なのは、この「わかる」という気持ちはどちらかというと「快」の感情に紐付いている。マンガは文字、絵、コマ割り、擬音など、様々な方面でストーリーを展開していくから、1ページあたりの説明量が多く、「わかりやすい」。だから「漫画というだけで楽しい」という事はある意味で自然な感覚である。「マンガでわかる◯◯◯」シリーズがウケるのも納得だ。

 

 ところで、「わかる」という気持ちは「快」の感情に結びついているが、実際の読解の理解度とは無関係だ。だから、「わかるという感情を抱くこと」自体は別にポジティブな現象とは言い切れない。全然誤解しているのに「わかった」つもりになっていても(まあ一人で楽しんでいる分にはいいのだが)、他者と意見のやりとりをすれば自分の認識の矛盾や誤謬に気づくこととなり、自分の構築した理解は崩壊してしまうだろう。逆に、「わからない」というのは苦しい状態であるが、これは却ってさらなる理解につながることもある。「わからない」というのは自分がわかってないということを認めているという状態であり、さらなる理解への志向を生み出す姿勢を作るからだ。(というのは先日読書猿氏の「独学大全」をパラッと読んで思ったことだ)

 

 

 ちなみに、「わかる」という言葉を語源から考えていくと、「わかる」とは「わける」から来ているという。ここから、「わかる」とは「パターンに分類して認識すること」であるとも言えるかもしれない。

分かる・解る・判る(わかる) - 語源由来辞典

 

 さて、以前ピエール手塚氏が言っていたが(引用元は忘れた)、「人はパターンを認識できるようになると面白さを感じ、パターンを読めないと面白くないと感じる」「しかしパターンを完全に読み切ってしまうと今度は飽きてしまう」そうだ。確かにこれは自分の経験則的には正しいように感じる。しかし、「飽きられない作品」というのも存在しているような気がする。これはどのようなものだろうか?

 

 ここで一つの例を取り上げる。自分の友人でMy Bloody Valentineの「Loveless」を1年に百回以上聴いている人がいるのだが、彼が言うには「何回聴いても飽きない。必ず気持ちいい」とのことだ。MBV自体、シューゲイザーというジャンルに分類される音楽であり、これはロックのジャンルの中でもかなりリフレイン(繰り返し)を基調としたスタイルを持つ。それを何百回と聴いて飽きないのはなぜだろうか?思うに、それは多分「聞くたびに新しい発見がある」ということなのだろう。これは作品を享受する側の技術の問題でもあって、例えば「コードワーク」「ベースライン」「ピッキングのタッチ」「男女ボーカルのバランス」「ギターの多重レコーディング」など、毎回アルバムを聴く際に着目するポイントを変えていけば飽きのスピードは遅いだろうし、更にこれらを複数組み合わせればさらに飽きづらくなるだろう。このように、飽きられない作品というのは、インスタントなわかりやすさだけにとどまらず、一つの複雑系を構築していて、摂取するたびに新しい発見がありまたわからない点が生まれる、そしてそれを繰り返す、そのような作品が該当するのだろう。

  


My Bloody Valentine | Loveless | Full Album (Remastered)

 

 では逆に一切パターンがない、もしくはパターンを認識できない表現について考えてみよう。アルゼンチンの作曲家でMono Fontanaという人がいるのだが、この人の作品「Ciruelo」には繰り返しのフレーズが殆どない(多分)。ではその音楽性は常に刺激に溢れ、飽きとは程遠いものと言えるだろうか?その答えとしては、「飽きる以前に良さを認識できなくなる」。繰り返しがないということは、展開的には常に驚きがある作品なのだが、それはしかし逆に言えば「驚きしかない作品」でもある。「驚き」は「すべての感情の源泉である(確かデカルトが言ってた)」が、この作品に於いては驚きだけで鑑賞体験が埋められてしまっており、驚き→感情という流れが発生する前に次の驚きが来てしまうので、良さを認識できない。要するに驚き疲れてしまうのだ。もちろんこれは作品を享受する側にも要因がある話だ。この作品を楽しんで聞ける人もいるのだろう。だが、自分にはそれをどうやってやっているのかは最早わからない。

 


Mono Fontana - Ciruelo (full album)

 

 このように、強いエンターテイメント体験は、ある程度パターンに落とし込み鑑賞者の「わかる」の感情を励起し、しかし飽きられないような複雑さを盛り込む、そういうギリギリのバランスのもとで成り立っている。そしてこの点から見ても「漫画を読む行為に面白さが内在している」は正しい。漫画はコマ割りなど一定のパターンを持つ表現形式であるからだ。だが、あくまで表現形式の一つでしかないのだから、その形式の生み出す「わかる」の快楽だけで作品の評価を終わらせてはいけない。それは多くの偉大なる漫画家たちが行っている創意工夫を無に帰してしまう行いだ。「わかる」の快楽の落とし穴はここにあると言えよう。わかって気持ちいいからこそ、作品を正当に評価できなってしまうのだ。

 

 …疲れたのでここまでにします、最後に宣伝をすると自分のやっているバンドpanpasgumiで最近シングル「感じ」を出したので良ければ聞いてください。

 

 あとcomputer fightってバンドも活動してます。こちらはハードコア?なのか?なんかblack midiみたいとか言われたこともありますが。1/29に渋谷でライブやるので良かったら来てください。こちらは中止になりました、悲しいね。以下は昨年のライブの様子。

www.youtube.com

 

 それでは皆様2021年も良い一年をやっていきましょう。