実験4号

生きのばしていく

雑記20230912

 Twitter(今はもうXという名称に変わってしまったが)で自分の考えを整理して発言しようとすると、どうしても140文字というパッケージに合わせて思考が制限されてしまうのではないかという気がした。というわけで久しぶりにこのブログに文章を書いている。もう少し日記的運用をしたほうがいいような気がしている。

 

 panpanyaという漫画家がいて、つげ義春のような濃淡の背景描写と、柔らかな線で書かれたキャラクターのギャップがとても好ましいのだが、どの単行本にも著者のブログのリリカルな文章がコラム的に各話の間に挟まれている。ここでいうリリカルというのはかなり形式的な部分で、要するに句点を使用しない文章だ。

 

試しにここから一切の句点を排除していく

そうすると、自分の書く文章がまるで、かつて小学校の国語の教科書で読んだ谷川俊太郎の詩のような感じがしてくる

その中に詩情は全く差し挟まれていないのに

なんとなくそれを詩であると認識している自分がいる

 

 panpanyaが書く文章にはもちろん詩情というか、空想の種みたいなものが埋め込まれているが、自分はどうもそういう作文が苦手だ。三島芳治の『児玉まりあ文学集成』に、次のような台詞がある。

 

文学少女には2種類あるの"

”「どんな事に書くか」に意味を求める人と”

”「どのように書くか」に興味がある人”

”私はあとの方”

”文学という形式のテクニカルな面だけに関心がある”

 

(三島芳治『児玉まりあ文学集成』1巻 P93)

三島芳治『児玉まりあ文学集成』1巻 P101より。最高。

 自分も何を書くかにあまり関心がないので、曲を作るとき歌詞を書けなくて困っている。形式のテクニカルな側面には関心があるので、音楽のリズムを考えたり、プロットの構造を考察したり、実験文学の知見を収集したりするのは楽しい。しかしまあそれだとどん詰まりな感じもあるので、つまりはこの文章を書いているというわけだ。

 

 まあ要するに作文練習を数こなして頑張りますよという話だ。誰に見せるわけでもないので宣伝もしない。見返しやすくなるので公開はするけど。これ以上は眠いので、また後日。