実験4号

生きのばしていく

ライブレポ:12/23SPOILMAN、12/24computer fight&TACO

 

 

 まずは12/23SPOILMANから。前日の深夜残業が祟り、朝うまく起きることができなかったがなんとか15分以内の遅刻に収める。14時開始でホントに助かった。滝野川は前住んでいたので馴染みもあり、しかしそんな区民センターがあるとは知らんかったゾイって感じでぜひ行くっきゃないという感じだった。道中Xのタイムラインを眺めると「新譜が発売されている!」という謎のニュース。

 

 会場はやたら高層ということを除けば至って普通の区民スペース。会場が8階だからなのか、1Fロビーに到着した段階では特に音が漏れ聞こえてきたりはしない。8階に到着すると「演奏中出入り禁止 曲間で入場してください」の張り紙。待っている間にトイレを済ませるも、5.Drunken Man~6.Flock Of Seagulls の曲間がほぼなく入場失敗。Flock Of Seagulls好きだったので残念。

 

f:id:kkmgn:20240102175340j:image

 入場すると、なんかのフェス?というくらいに沢山の人がおり、SPOILMANの人気を実感。奥の方に進むと椅子がありとても嬉しい気持ちになった。とりあえずカバンを端に置き演奏を聞き始める。

 

 SPOILMANのライブで思うのはスリーピースとは思えない音の迫力があることだ。たぶん音のバランスがいいんだろう。よくわからんけど。あとチャックさんの謎の動きも見どころだ。今回はカシマさんがチャックさんから水を強奪する一幕があり、会場は爆笑(辞書的な意味で)。自分は全てのライブにおいてMCとかいらね~と常日頃思っているものの、こういうランダムなエンタメ性はライブの魅力を底上げすると思う。SPOILMANのライブは既に何回も見ているが、いつも楽しめるのはこういうところにも要因があるのかもしれない。

 

 

 

 結果的には2023年に見た中でも随一のライブ体験だったと思う。もちろん演奏が良かったのは前提として、今回は自分と会場との相性が良かった。椅子が置いてあっていつでも休めるし、カシマさんは「好きに聴いてくれ」という感じの態度を出しているし、アルコールに負けて眠くなることもない。誰もがFugaziを連想するロケーションも現場で鑑賞することの意味を強めてくれるように感じられる。あとPAめちゃくちゃよかった。先週見たORGE YOU ASSHOLE(@LIQUIDROOM)のライブも良かったけど、「ライブ体験」という総合的な視点ではSPOILMANのライブの方が楽しめた。別にどっちの方が優れているとかではなく、個人的な相性の話だけど。

 

 今回ここまでのクオリティのイベントができたのは、おそらく3LA水谷さんの尽力も大きいのだろう。会場手配、ステージセッティング、機材レンタル、PAスタッフ配置、などなどなど、ざっと想像するだけで恐ろしい量の事務が発生していることが窺える。拍手。(後日チャックさんからおおよその予算感を聞いてなるほどとなった)

 

 終演後、(本当に発売されていた)新譜を購入して、諦念玲奈と一緒に翌日のライブのビラを配った。自分もうメンバーじゃないけど…。多くの見知った人々の顔を見ることができ、SPOILMANのライブはもう既に一つのコミュニティを形成できるほどのレベルになっているのだなあと実感した。

 

 新譜を購入する時、「アルバム制作するの速すぎっす」とカシマさんに話したところ「いやあ、前のやつから半年経ってますし、出ますよ」と返されて悶絶。SPOILMANのリリースペースの速さにはいつも驚かされているが、今回ワンマンライブ会場でのゲリラ的先行発売という形でその速さをいつも以上に実感させられ、スター性があるな~と思った。

 

 

 

 翌日12/24はcomputer fight+TACOのツーマン@西荻窪FLAT。開始時間が割と遅く、なんとか体に鞭打って間に合うことができた(途中で諦念玲奈にお使いを頼まれるくらいには余裕があった)。会場に入るといつも通りの無音。そして机の上には金属類のインスタレーション。このような総合的な(音楽だけでないという意味)表現・ライブ体験を提供しようとする諦念玲奈の姿勢はとても好きだ。

 

f:id:kkmgn:20240102175459j:image

 

 喫煙所で喉笛くんと会話して、the bercedes menzの「天蓋」のPVを絶賛したりしているとTACOの演奏開始時間が到来。…と思っていたら、なんとcomputer fightのVo.カンフーに手を引かれた山崎春美さん(目隠し・四肢拘束状態)が登場。緊張感溢れる空気の中、TACOが演奏を開始。森田潤さんのアナログモジュラーシンセにはパレスチナの旗が刺さっている。全身が興奮しながらも、踊り狂うのはなんか違う気もしたので、自分の体を抑えつけつつ、二人のパフォーマンスを凝視した。森田さんは爆撃のようなノイズや、EP-4のようなピコピコ音、ロック曲のサンプリング?などを流し、春美さんがシャウト。時折MCで(おそらく)ガザに関することを話す。

 

 

 

 TACOの演奏の最中、かつて山崎春美さんが言ったという「政治なくして何が音楽でせうか」というテーゼについて考えていた。自分は、冒頭の春美さんのパフォーマンスや森田さんの机上にあるパレスチナの旗を見て、ガザの事について考えている。ノイズの音は、爆撃を表現しているのかもしれないと考えている。一方で、TACOのパフォーマンスはカッコよく、何も考えずに耳を傾けていたいとも思っている。すべての表現はイデオロギー的である。「音楽はすべて政治的でなければならない」もではなく、「そもそも政治的ではない音楽表現は存在しない」のではないか。表現者は自らの政治性について自覚的であることが肝要であり、「(狭義の)政治の話をしろ」ということではないという認識。だってライブ中政治のこと考えてたら音に集中できないし…。(人や曲によるか?)

 

 そんなこんなで、computer fightの演奏に切り替わる。脱退後も若干嫌がられるくらいライブに足を運んでいるが、この日は2曲新曲をやっていてそれが両方ともとても良かった。元々computer fightは諦念玲奈が考えた1〜2のリフを少しだけ繰り返すだけのショートチューンが中心だったが、最近はそこから軸足をずらし、歌を中心とした曲作りに力を入れていると聞いた。そこはVo.カンフーの加入による影響もあり、本名くんがいた頃とは別の方向性へ向かっている。アンセムっぽい曲もできてくるのかもしれず今後の作品がとても楽しみだ。

 

 

 

 この日のcomputer fightは2023年の中でも指折りの大盛り上がりデーで、自分は曲をよく知っているだけにとても楽しむことができた。これも自分とライブとの相性の話だが、自分の特殊な経緯により強い楽しみが発生している状況なので、一般的な観客の感想は出力はできない。

 

 この日も見知った色々な人達が観客としてきていたが、computer fightは個人的なつながりがあるバンドを対バンに呼ぶことを避けるし、無音の会場は観客同士のコミュニケーションを抑止する方向に作用する。その雰囲気は美術館のようで、観客が表現(ライブ)に集中するようデザインされている。computer fightの自主企画は普通のライブ空間とは違う空気が流れているので、見に行ったことがない人はぜひ1回顔を出してみてほしい(次回の予定知らないけど…)。

 

 終演後、打ち上げにお邪魔して山崎春美さんとお話をする機会も得た。体温の低い気さくさを感じ、いろいろと貴重な話、先々の活動予定の話を聞いて興奮した。年の瀬の土日にいい休日を過ごすことができてよかったなあ、という次第であった。というところまで書いて筆を置きます。

雑記20231218

 イスラエルの兵士がパレスチナの人々を虐殺したその廃墟でプロポーズするみたいな動画がSNSで流れてきて、「なんて胸糞な動画だ」みたいなリアクションがたくさんついていた。自分としては

 ・本当に虐殺した現場での映像なのか

 ・イスラエル兵の認識としては「虐殺」ではなく「テロとの戦い」であり、正義に溢れた行動と考えているのではないか

 ・現在イスラエルが行っている軍事行動のポリシーはどのようになっているのか

 ・「イスラエルの軍事行動は国際法的に違法」みたいなことが言われるが、そもそも国際法ではどのような軍事行動を違法と規定しているのか

あたりのことは確認しないと何とも言えんなあと思ってしまうが、自分は何にでも「正解」を出したがる志向があるので、専門家でもない一般市民たる自分がそれをやる意味はあるか?とも思う。そういう意味では自分はパレスチナの問題をただ好奇心を満たす対象としてしか捉えておらず、真の意味での連帯をしていないのかもしれない。

 しかし日本の一般民衆がパレスチナの人々のためにできることというのは、連帯の意思を「示す」ことであり、心の底から共感をすることそのものではないから別に良いのでは、という考えも浮かんでくる。なぜなら日本人から見たパレスチナの人々と同じように、パレスチナの人々から見ても日本人は「遠い海の向こうの人々」であり、その本心までは関知するものではないからだ。

 逆に件のイスラエル兵の動画に怒りを覚える人は共感性は高いと思うが、真偽もよくわからないただの動画に一々感情を動かしていたら疲労しないだろうかと心配になる。いや、疲労そのものが悪いというのではなく、それによってその人自身の気分が落ち込み、不幸になったら本末転倒だなということだけど。ただ、それは愚かということではもちろんない。

 SNSでは不買運動を推奨するポストが流れてくるが、その内容について一々真偽の程を確認するのは自分には難しく、例えば不買をすべき企業の一覧の中に、資料作成者にとって利益関係がある(不買行動が広まることが資料作成者の利益になる)ものが含まれていても気づけない。もちろん基準は設定されているのだろうけど、それが本当に妥当かどうかまでわからない。そんなことを考えるうちにイスラエル企業との取引停止を表明する企業のポストも流れてきていて、非常に流れが速いと感じる。

 イスラエルについてシオニズムというもののあり方から批判を加えているものもあり、自分の視野ではパレスチナ支援が正義となっているが、イスラエルの一般市民はどのように考えているのであろうか。国のイデオロギーを完全に内面化している人が多そうだが、中には自国が戦争犯罪をしているという罪の意識に引き裂かれるような思いをしている人もいるのだろう。あるいは自分と同じように混乱しているかも、あるいはただ単にテロの恐怖に怯えたり、生き残ることだけを考えている人もいるかも。イスラエル国外のユダヤ人コミュニティの人々はどうか。

 全部を考えることに意味はないし、意義もないかもしれないが、納得はしたい。とはいえデモに参加するのは面倒臭いし、毎日忙しくて疲れている…どうしたものか…と、頭を巡らすだけ巡らせて、一旦この記事を閉じる。

百頭たけし「と-れん」と(私にとっての)suburban bluesの情景

 

 

 曳舟・Token Art Centerで開催されている、百頭たけしの個展「と-れん」に行ってきた。百頭たけしの事を最初に知ったのは小林銅蟲リツイートで、その時は「とても硬派なネタツイをする人」くらいの認識だった。後に写真家であるということを知ったわけだが、その作品は、スクラップや投棄された品々を時に暴力的に、時に寂しさの混じったユーモアとともにフレームに収めたものであると私は捉えた。その後、computer fight(かつて私が在籍していたバンド)の1st album「suburban blues」のジャケットにぜひとも百頭氏の写真を採用したいとギターの諦念玲奈が提案し、結果そのようになった。百頭氏にアルバムを聴いてもらい「このような写真はどうか」と提案してもらった写真を見た時は、あまりにもイメージドンピシャで心底震えたのをよく覚えている。

 

 個展「と-れん」は、1階に写真作品が二十数点、2Fに3Dプリンタ出力の像と写真が数点、そして「乾かず歩み去る」「歩み去る」のタイトルが付けられた映像作品のインスタレーション(ノイズ・ドローン的サウンドが同時に流されていた)によって構成されている。入場料500円で温かいお茶が出てきてとても嬉しい。写真作品は撮影年こそ記載されているものの基本的に全て無題である。質素なコンクリ打ちの内装と合わせて、作品以外の情報がかなり削ぎ落とされた空間であり、緊張感こそあったがとても良い雰囲気だった。

 

 個展のタイトルである「と-れん」は、キャプションによればボルヘスの短編トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」(『伝奇集』収録)から取っているとのことであった。この掌編は、トレーンという捏造された架空の文化世界が発見されるも、それがどんどん現実に侵食していく、というあらすじで、私も好きな作品である(SCP-140「未完の年代記」はこれに近い作品だ)。トレーン文化は認識されることで現実性を獲得するという性質を持っており、それは世界の基本的な性質でもあるのだが、それが第4の壁(虚構と現実の境界)をも超越してくるというのがこの作品のミソだ。百頭たけしの作品群がトレーンのように虚構的でもあり現実的でもある、みたいなことがキャプションに書いてあった気がする。

 

www.iwanami.co.jp

 

 本個展で鑑賞できる写真作品は、主に埼玉・千葉・神奈川の「郊外」にあるジャンクヤードの風景を撮影したものが中心だ。錆びたスクラップ、異常に積み重なった廃棄マットレスの山、古い自動販売機…。ここで切り取られる「郊外」は、「都会」から排泄されている一方で、「田舎」のような自然とも異なる、工業的なものが打ち捨てられた果ての漂流地として表れている。それはオフィス街や住宅地では見ることのできない風景であり、それら整った世界の周縁にあるものたちだ。映像作品でも示されているが、百頭氏はGoogle Mapのストリートビュー機能を用いてそのような風景がありそうなスポットに当たりをつけ、現地を訪れて撮影を行うという活動スタイルをとっているらしい。その意味で、百頭氏はフィールドワーカーとしての側面を持ち、一つの「郊外」世界を提示する芸術家でもあるわけだ。

 

 私個人として印象的だったのは、作品群の中には大黒天像や狸の信楽焼といった「像」が多く登場していたことだ。不要となった「像」の処分は難しい。石膏や巨大な陶磁器は産業廃棄物として処理しなければならないという手続き・コストのハードルもさることながら、神や動物を模った物品を破壊するということには心理的抵抗感がある。その点で行政システムのゴミ廃棄ラインには乗らず、このような「郊外」に流れ着くパターンが多いのかもしれない。たとえゴミであっても、「都会」の行政システムによって収集されうまく処分・隠蔽されるものとそうでないものがあるのだ。そこでシステムに包括されなかったものが集積されると、新しい性質と表情を見せるのだということを感じた。

 

 本個展を鑑賞した後、諦念玲奈と飲むことになったので、彼に百頭たけし作品の印象について尋ねてみた(彼は私より先に「と-れん」の鑑賞を済ませていた)。諦念玲奈曰く、百頭たけし作品の世界は彼にとっての「原風景」である、とのことだった。転勤族の親を持ち、地方を転々とする幼少期を過ごし、そして現在も「郊外」に住み続ける彼にとって、金属くずの山は彼自身を構成する一つのモチーフであり、computer fightの活動は、その表現であるのだ。諦念玲奈のギターサウンドが自他ともに「金属的」と表現されている現状は、その活動の一つの成果であると言える。一方、私は今まで東京の「住宅地」にしか住んだことがない。その近くにジャンクヤードは存在しなかったはずだ(あるいはただ単に認識できていなかっただけかもしれないが…)。その点で、百頭たけしの作品世界について私は一つの美のあり方の提示として受け取っていたし、生活からは切り離されたものであった。そのような異なるバックヤードを持つ人間が(かつて)同じバンドでアルバムを作れたのは、百頭氏の作品によるイメージの共有が行われていたからなのかもしれない。それは百頭氏と諦念玲奈の表現のパワーの共鳴が成した功績でもあろう。今は私は脱退したが、computer fightの活動については、今後も大いなる期待を込めて見守っていきたい。

 

open.spotify.com

平方イコルスン『スペシャル』:アンハッピーエンドを希求する心と快楽の檻


 ※本記事には平方イコルスンスペシャル』のネタバレが含まれます。

 

 私が2022年に読んだマンガの中で、最も素晴らしいと思った作品は平方イコルスンの『スペシャル』でした。もう既に2023年が終わりに近づいてきましたが、『スペシャル』の感想を書きます。

 

 なお、『スペシャル』の感想については自分が友人とやっているPodcast実験4号の漫荼羅漫談」でも話しています。今回の記事はそれを文章に整えたものです。

 

open.spotify.com

 

 平方イコルスンの『スペシャル』は、リイド社Webマンガ媒体「トーチWeb」で足掛け8年間続いた連載が2022年に完結、最終4巻が発売されました。第1話は↓から読むことができます。

 

to-ti.in

 

 平方イコルスンという作者は、主に白泉社の楽園コミックスレーベルから『成程』『駄目な石』『うなじ保険』といった作品を出しており、独特の語彙・テンポの会話劇を描くことに特化した作家でした。

 

平方イコルスン『駄目な石』P5、短編「できる顔」より

 

 『スペシャル』でも同様の作風が更にブラッシュアップされ、転校生である主人公・葉野小夜子と、怪力クラスメイト・伊賀こもろ、およびその同級生たちの日常生活が不思議なテンションで繰り広げられます。

 

平方イコルスンスペシャル』P63より

 このまま数年連載が続き、葉野と伊賀の日常も続いていく…と思っていました。思っていたのですが。

 

この日常が続くと、いつから勘違いしていたんだろう。

ヘルメットを被った怪力女子高生と一風変わったクラスメイトたちの、普通じゃないけど普通のスクールライフ。

だったはずなのに…

喜劇の“外側”に巧妙に隠蔽されてきた黙示録的世界は、誰も気付かぬほどゆるやかに日々を侵食していく。

(第4巻帯文より)

 

 第4巻での急展開、そしてカタストロフィ的終劇。その具体的な詳細については本編を読んでいただくとして、「日常の終焉」を描くために一つの世界を構築し、そして破壊するという作者の恐ろしいまでの執着に畏怖の念を抱かざるをえませんでした。それと同時に、自分が常日頃から抱いていた「日常系」への疑念が見事に表現されていることに大変感動しました。

 

 この「日常系」への疑念は、自分は普段は「鬱よつばと」というワードを使って表現しています。『よつばと!』といえばあずまきよひこによる国民的日常系ギャグ漫画の金字塔であり、主人公の謎の少女・よつばが「とーちゃん」と一緒に、時には笑いを交えながら思い出を作っていく傑作です。しかし、自分はよく思うのです。「この世界に、暴走トラックをひとつまみ投入してみたら、果たしてどうなるのか?」このシチュエーション思考実験が「鬱よつばと」です。

 

 悪趣味な想像だと笑う人・怒る人・呆れる人もいるかもしれませんが、この治安レベルの平和な日本において起こりうる悲劇というのは、得てしてそういうものだと思います。そしてそういった悲劇はそれこそ「よつばと!」で描かれたような、かけがえのない、笑いありの素敵な日常においてこそ際立つものです。自分は家族にこそ不慮の事故で死んだ人はいませんが、知人友人の間柄であれば数人程度は亡くしています。その経験があるから…というわけでもないのですが、私たちが日々生きている日常は、そのような悪い方向にも無限の可能性が開かれているのです。

 

 さて、マンガという虚構分野は、特にエンターテイメントに特化する傾向があります。それは読者層、商業主義など様々な要因があるかと思いますが、とにかくバッドエンドの物語を書くことについてはそれなりのハードルがあるように感じられます。週刊少年ジャンプ漫画賞の質問箱において「(バッドエンドが)ハッピーエンドを上回る満足感や人気を得るのは難易度が高い」という回答があったのは印象的です。

(当該ツイートリンクは以下)

https://x.com/jump_mangasho/status/1441357210458624001?s=20

 

 また、私の友人でも「わざわざ創作物でバッドエンドのものなど読みたくない。せっかくいい気持ちになるために漫画を読んだりしているのに」という人がいました。その理屈自体はよく理解できるのですが、それでも私達の現実に悲劇は存在します。そして、その悲劇の存在に心を囚われ、悲劇だからこそ表現できるなにかを求める人間もいるのです(それこそ自分のように)。自分がよく思うのは、「現実に悲劇が起こったら取り返しがつかないからこそ、虚構の中で悲劇を堪能したいのだ」ということです。

 

 『スペシャル』は自分の「鬱よつばと」のような露悪的な悲劇ではなく、あくまで自然なバッドエンドを描いています。それは主人公である葉野小夜子が「物事を深く考えすぎてしまう性格であるばかりに、友人のことを深く理解できず、自分にとって納得のいく選択をできなかった」という後悔のバッドエンドです。そしてその後悔までの道のりは、あくまで日常とコメディによって舗装されており、「気がついたら間違っていた」という性質のものとして描かれています。『スペシャル』を読んだ友人が「スチルを全部回収できなかったノベルゲーム的バッドエンド」と表現していましたが、これは非常に言い得て妙だと思いました。本当に覚悟を見せるべきときに、適切なフラグを踏んでいないと、ハッピーエンドに至るための選択肢すら表示されない。不幸へ至る道がそのようにできていることがあるというのを、『スペシャル』も友人の感想も、見事に表現していると思います。

 

 『スペシャル』のバッドエンドのもう一つの特徴として、「状況説明が全般的に不足している」というものがあります。途中から出てきた違う言語を話す人(?)たちは一体何者なのか?美倉の行動の真意は?「槍」とはいったいなんだったのか?最後のサイレンはいったいなんだったのか?その疑問は解決されないまま、本作は突然の完結を迎えます。本作完結後に阿佐ヶ谷ロフトAで行われた「平方イコルスンスペシャル』完結記念トークイベント」でも、読者である観客は上記の疑問を含む沢山の質問をし、そのほとんどに作者は「答えられません」と返しました。もちろんある程度の考察はできなくもないですが、基本線としては「わかることができない」という作品世界を作ろうとしたというのが作者の意志であったと思われます。しかし、実際に私達が生きる世界というのはそのようなものではないでしょうか?その価値観が読後感において多くのもどかしさを生み出したとしても、私は作者のその意志を高く評価したいと思います。

 

 こんな作品は少なくとも週刊少年ジャンプのような媒体では作ることはできないでしょう。*1読者は作品を通じて笑いと感動と勝利を得ることを求めているのですから。しかしそれは「エンターテイメント」がもたらす快楽によって、物語の形が軛をかけられているということでもあります。物語・虚構というのは本来とても自由な世界であるはずなのに、商業主義の要請によって枷をはめられてしまっているのです。そういう意味で『スペシャル』は非常に「在り難い」タイプの形式の物語をしており、そしてその物語効果を最大限発揮するために冒頭から続く日常コメディの質の高さがこれがまた素晴らしいのです。

 

 平方イコルスンの次回作の情報は出ていませんが、次の作品が待ち遠しいです。それは『スペシャル』のような作品をまた読みたいという意味ではなく、『スペシャル』を書くほどに物語の力というものを信じている人間が、次にどんな作品を作るのかに興味があるからです。

 

 今後も物語を愛する人による物語を愛する人のための物語が読めれば、それ以上の幸いはありません。

 

 

*1:これは週刊少年ジャンプのあり方そのものを否定しているわけではありません。私は毎週ジャンプを読む人間ですし、そもそもジャンプ作品にも様々なバリエーションがあり、非常に多くの傑作があります。

日記20230925

 インボイス制度の署名(50万人分)が受け取り拒否されたというニュースが流れた。ツイッターしか参照していないけど、まあおおよそ事実なのだろう。周辺情報を探してみると、首相のセキュリティ上の都合により「直接手渡しでの受け取り」を拒否したということらしく、過去のテロ未遂事件や元首相の暗殺を考慮するとまあ妥当であるように感じる。とりあえず郵送で送ったりはするのだろうし、直接手渡しは前から「いやちょっと…」という態度であったのであれば、今回の「受け取り拒否」報道は政権に対するネガティブパフォーマンス的要素が強そうだ。もちろんそれだから悪いということはなく、インボイス制度にNOを突きつける(あるいは今後の廃止を働きかける)上でやれることは全てやるという狡猾さは必要だし、色々と報じられる現政権…というか自民党の振る舞いを見るとむしろそれくらいが健全だとさえ思う。直接手渡しの拒否という態度については、その意志を示したのが首相本人か周囲の人間かわからないし、仕事のために命を危険に晒すことの強要は(基本的人権として)できないので、それ自体はマイナス評価ではない。ただ、そこでパフォーマンスとして直接受け取りをやって民衆の支持を得るというのは、政治家としても気持ちよさそうなものだけど。それをやらないっていうのは、周囲の反対を振り切るほど労力を割きたいわけではないとか、何かあったときの責任問題を考えたくないとか、誰か別の人間の指示を受けているとか、まあ理由をでっち上げようとすれば無限にできるけど、ともかくそういう文化は今の日本にはないのだなあ。

 

 政治について考える、関わっていくやり方は無限にある。それも一つの複雑系だ。

雑記20230912

 Twitter(今はもうXという名称に変わってしまったが)で自分の考えを整理して発言しようとすると、どうしても140文字というパッケージに合わせて思考が制限されてしまうのではないかという気がした。というわけで久しぶりにこのブログに文章を書いている。もう少し日記的運用をしたほうがいいような気がしている。

 

 panpanyaという漫画家がいて、つげ義春のような濃淡の背景描写と、柔らかな線で書かれたキャラクターのギャップがとても好ましいのだが、どの単行本にも著者のブログのリリカルな文章がコラム的に各話の間に挟まれている。ここでいうリリカルというのはかなり形式的な部分で、要するに句点を使用しない文章だ。

 

試しにここから一切の句点を排除していく

そうすると、自分の書く文章がまるで、かつて小学校の国語の教科書で読んだ谷川俊太郎の詩のような感じがしてくる

その中に詩情は全く差し挟まれていないのに

なんとなくそれを詩であると認識している自分がいる

 

 panpanyaが書く文章にはもちろん詩情というか、空想の種みたいなものが埋め込まれているが、自分はどうもそういう作文が苦手だ。三島芳治の『児玉まりあ文学集成』に、次のような台詞がある。

 

文学少女には2種類あるの"

”「どんな事に書くか」に意味を求める人と”

”「どのように書くか」に興味がある人”

”私はあとの方”

”文学という形式のテクニカルな面だけに関心がある”

 

(三島芳治『児玉まりあ文学集成』1巻 P93)

三島芳治『児玉まりあ文学集成』1巻 P101より。最高。

 自分も何を書くかにあまり関心がないので、曲を作るとき歌詞を書けなくて困っている。形式のテクニカルな側面には関心があるので、音楽のリズムを考えたり、プロットの構造を考察したり、実験文学の知見を収集したりするのは楽しい。しかしまあそれだとどん詰まりな感じもあるので、つまりはこの文章を書いているというわけだ。

 

 まあ要するに作文練習を数こなして頑張りますよという話だ。誰に見せるわけでもないので宣伝もしない。見返しやすくなるので公開はするけど。これ以上は眠いので、また後日。

 

 

 

 

TAGRO『別式』:現実読解とディスコミュニケーションの話

 ※この感想書き散らしはネタバレを含みます

 

f:id:kkmgn:20220321005118p:plain

 

 

comic-days.com

 

 マンガDAYSでTAGRO『別式』が全話無料だったので、人の薦めもありスマホで全話を読んだ。『別式』は2016年にモーニング・ツーで連載していて、当初自分も読んでいたのだが、仕事が忙しくなって雑誌自体を読むのをやめてしまってそのままになっていた。今回読み終わって大変面白かった気がしたが、全然ちゃんと読み解けていないと思ったので、読み終わったあと、すぐもう一周読んだ。

 

 この作品でとても好きな部分はやはり第一話開幕直後に提示される悲劇、そしてそこから時間を戻してどうしてそうなってしまったのかを描くという物語構成だ。似たような作品としては西島大介の『ディエンビエンフー』が想起され、どちらもポップな絵柄で陰惨な描写がある。あとは冲方丁/三宅乱丈の『光圀伝』もそうかなあ、悲劇ではないかもしれないが。

 

f:id:kkmgn:20220321002357p:plain

西島大介ディエンビエンフー』。Kindleで常に安い。

 

 また、作品を通底して描かれるディスコミュニケーション=人と人のわかりあえなさというテーマも好きだ。正直「お江戸ガールズコメディ!」というキャッチコピーからそんなテーマの物語が提示されるとは思わんかった。

 

 ただこの作品はどうにも自分には読解が難しい。複雑な感情と事実認識の交錯があるストーリーはまとめて読めればギリギリなんとかなるが、連載だと正直追えなかっただろう。そういう意味では自分はこの作品と幸福な出会い方をしたとも言える。

 

 難しかったポイントが何点もある。未だによくわかってないところも。

・「九十九はなぜ魁のもとを離れ、どこへ向かおうとしていたのか?」→大体魁が最終的に結論づけた内容(九十九は魁を抱いたあとにやはり刀萌の敵を討ちたくなって岩渕源内の元へ向かう。ただし魁は犯人が切鵺であると誤解)であっているとは思うが、27話における描写が妙に少ない。まあ勝利が岩渕源内捕縛の算段の手筈をつけたエピソード(遡ること半日~)の挿入も唐突だし特に意味はないのかもしれない。

・「29話で勝利が切鵺に言った"だがもし…まだ儂に話せないことがあり墓場まで持っていくというなら儂はそれでも構わん…"は何を指しているのか?」→切鵺が隠すべき事柄ってなんかあったっけ?それとも「勝利が切鵺を疑う余地がまだ残っている」ことの表現?

・なぜ切鵺は「九十九を殺したのは自分じゃない」と明言しないのか?(第34話では誤解を誘発させるような言動すらしている)→九十九の死に責任を感じている?それとも誤解されている事自体をきちんと認識していない?

・最後の類の「倖せは赤い色をしている」という言葉の意味は?→これはいろんな解釈の仕方があると思うからそんなに気にしていないが…。自分としては「幸福であるということがなんなのか、私には確信が持てない」という意味と捉えている。

 

 読解というのはなんとも難しいものである。というのは自分が学生時代に現代文のテストで点を落としまくっていたからだが…それでも読解はちゃんとやったほうがいい。物語にいろいろな解釈があるのは別に良いが、誤った事実認識のもとで解釈された感想・評価は他人と共有できないし、誤りの指摘を受けて崩壊することだってある。感想をちゃんと出力しようという心意気は立派かもしれないが、その前に読解を蔑ろにしては意味がない。読解をやる気がないならば、感想・評価は他人と共有せず、自分だけの世界の中で完結させるべきではないか。

 

 まあ作品の感想を読解を前提とした上で他人と共有することなんてほぼないから、あまり気にしなくてもいいかもしれない。ただ、現実世界において、自分はどう認識をしているのか、そこのところを明らかにせずにやると、それこそ『別式』のテーマでもあるディスコミュニケーションが発生するよなあと思う。『別式』では特に類、魁、切鵺の3人にそれが顕著で、岩渕源内の仇討ち後に本来死ぬ因果のない魁、切鵺が死ぬこととなったのは、それぞれが何を考えているかを他人に共有せず(あるいはできず)、自分の想像で他人を推し量りすぎたからだと思う。一方で早和はあまり深く考えず行動優先の人物で、そしてその性質が他人にも共有されている(第7話参照)からこそ、別式達の潤滑油として機能していたのだろう(刀萌も割とそんな感じだ)。大切なのは考えの深さが違うことそれ自体は問題ではなく、自分の考えの深さを他人に表明しないことの方が問題があるということだ。正直作中の悲劇の半分くらいはもうちょっとみんなで話し合いすれば発生しないで済んだようなものだが、それを言ってしまうと物語自体が成り立たなくなるので置いておく。それにこのことは岩渕源内を売った男が「全く何をどうすればここまでこんがらがる/お前たちにとってその元凶と思われた岩渕は死んだ/なのにまったくハッピーじゃない」って言ってくれてる。

 

f:id:kkmgn:20220321002720p:plain

TAGRO『別式』第5巻P137。読者の代弁者

 

 ディスコミュニケーションはいろんな形式があって、他にも「表面上は会話が成立しているようでも、実は相手の話をちゃんと理解していないままリアクションしているだけで内容はずれているのだが、リアクション自体はちゃんと行っているのでそのまま続いてしまう」みたいな現象がある。例えば第33話の魁と切鵺の会話はちゃんとお互いの言っていることを理解しているのか?というテンポで高密度な会話が続く(正直この点でTAGROのマンガは少し読みづらい)。新井英樹が描くような「リアルな聞き間違いによる淀みある会話」や黒田硫黄が描くような「読者にとってハイコンテクストだが作中人物にとっては自然な会話」もそうだが、会話の機能不全の描写は、フィクションを読みすぎて逆に欺瞞を感じるようになった自分のような人間には大変刺さる。こういうのをちゃんと描くのは作者TAGROの誠実さ(めんどくささとも言う)の現れなのだと思うし、とても好きだ。

 

f:id:kkmgn:20220321002955p:plain

TAGRO『別式』第5巻P140。魁さん人の話聞いてます?

 あと類の「自分本位スライド」面白すぎる。現実世界の会話でこれやられるとおやっという気持ちになるけど、フィクションだとわざわざ描写されないとちゃんと会話が成立しているように見えちゃうんだよな。

f:id:kkmgn:20220321003613p:plain

TAGRO『別式』第3巻P131。主人公の最悪ムーブ。

 絵がめちゃめちゃポップなのに描かれている人・現象が面倒臭くて、ぶっちゃけTAGRO作品は連載に向いていないのではないかという気もする。通して読むと面白いんだけど。とりあえず僕は面白かったので『別式』全巻買ってからこの文章を書いています。次は『変ゼミ』を読むことを勧められているので、そちらも読もうと思います。

 

 

あと関係ないけど昨年のcomputer fightのライブ動画です。5月にレコ発自主企画ライブやるので良かったら来てね。

www.youtube.com